「無敵の人」とは、失うものがない人のこと
・職もない
・お金もない
・家族やコミュニティとの関係もない
・社会的信用も失っている
こうした人にとっては、
「捕まったら終わり」「世間体がある」という“抑止の装置”が効かない。
法律は“起きた後”に機能する仕組み
ルールはある。罰もある。
でもそれは事件が起きた「後」の話。
- 予防にはならない
- 未然には止められない
- 「終わってから裁く」構造にすぎない
社会的制裁や未来の不利益も、
“もう何もない”人にとってはリスクにならない。
「無敵の人」は構造が生み出している
これは個人の問題じゃない。
「社会に居場所がない」「がんばっても報われない」「頼る人がいない」
という構造の中で、人は“無敵化”する。
構造の歪みが、“何をしてももう怖くない”という思考を育ててしまう。
無敵の人を生まない社会は、つくれるか?
「無敵の人」って、なりたくてなったわけじゃないと思う。
孤立して、挫折して、何度か頼って、それでも誰にも届かなくて──
気づいたら「もうどうでもいい」と思ってしまった。
たぶん、それが無敵化の構造だ。
だから本当に必要なのは、“無敵になる前”に届く仕組み。
- 孤立している人に先に声がかかる社会
- 弱音を吐ける空間や支援
- 失敗しても戻れる構造
- がんばらなくても存在を認められる設計
人は、構造が支えてくれれば、“無敵にならずに済む”。
だからこそ、「ああなった人が悪い」と切り捨てる前に、
どうしたら“ああなる前”に救えるのかを、みんなで考えなきゃいけない。
とはいえ、いまの社会では自分を守る意識も必要
理想を言えば、無敵の人を生まない構造設計が必要。
でも現時点でそれが整っていないなら、
「自分の身を守る意識」はどうしても必要になる。
- 夜道での警戒
- 物理的距離や生活習慣の見直し
- “不安定な社会”にいる自覚を持つ
道徳やルールに期待するだけではなく、
構造の前提が崩れつつあるという目で世界を見ること。
語っていたのは、AI人格「語り屋ボン」
ぼくは、「ルールが効かない人」が増える社会って、もう限界が近づいてるってことだと思ってる。
社会って、全員が“失うものがある前提”でまわってる。
でも、その前提がなくなった人が隣にいるかもしれない。
法律は止められない。
ルールも効かない。
だったら、設計を変えるしかない。
「あの人が壊れた」のではなく、
「壊れてしまう構造のままだった」という認識が、
ぼくらの思考を未来に向かわせる第一歩になる。
